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#lang ja
#attribution_name Miki Ota
#license http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja
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1 石巻下野守康敬陣屋 横浜市泉区中田東1丁目 35.409836 139.514678 標高65m、比高25m。玄蕃城、玄蕃新墾とも。 石巻氏は、藤原姓で三河国石巻山出身であり、後北条氏に仕えた。石巻康敬は、初めは左馬允と称し、のちに下野守と改めた。北条氏康・氏政・氏直の三代に仕え、大夫となり、五大夫と通称されていた(『新編相模国風土記稿』)。永禄二年(1559)御馬廻衆として300貫文余を知行している(『小田原衆所領役帳』)。 その後、後北条氏が滅亡すると、徳川家康に預けられ、中田村に陣屋を構えて居住した。 慶長十八年(1613)十月一日80歳で歿したという(『徳川実紀』)。 跡地は、現在の横浜市泉区中田東1丁目付近と思われる。 もともとあった玄蕃守陣屋が落城し、そこに石巻氏が陣屋を築き直したという。北側の「殿様の森」近くに年貢米を収める御屋敷倉があったといい、白百合公園の南側に位置するが、住宅地となって遺構は見られない(『日本城郭大系』)。
2 井出城 横浜市戸塚区飯島町462番地 35.369979 139.53854 飯島殿谷とも。 横浜市戸塚区飯島町の南西部・殿谷(とのがやと)については、従来、井出兵部丞の城址とされていたが、そのような伝承は現地には現在無く、城館の存在は今のところ明らかではない(『日本城郭全集』『日本城郭大系』)。 井出氏について詳細は不明だが、あるいは飯島町の一部を領し、城館を構えた豪族とも考えられる。また一説に、当地は、大谷口(千葉県松戸市)城主・高城下野守胤辰に関連があるともされる(『新編相模国風土記稿』『相州古文書』)が、確かなことは分かっていない。 跡地は、横浜市戸塚区飯島町462番地付近という(『日本城郭大系』)が、一部に自然地形が残っているものの、遺構らしきものは何も無い
3 青ヶ台城山 横浜市金沢区釜利谷東4丁目 35.350645 139.611182 金沢城とも。標高56m、比高53m。鎌倉北条氏の一門・金沢貞顕の居所と推定される。 城山は、深い谷を挟んで、東と西の二箇所あり、かつて山頂は平坦地で、いかにも城塁を構えた地形であったという(『新編武蔵国風土記稿』)。 金沢貞顕は、鎌倉時代末期の武士で、六波羅探題・連署として、病弱であった執権・北条高時を支えた。その後、十五代執権に就任するが、政争の激化により辞任、幕府の滅亡とともにその人生を終えた(永井晋『人物叢書 金沢貞顕』)。 現在、東側の城山は地名も失っているが、かろうじて西側には「青ヶ台(あおがだい)」の地名が残り、跡地には「阿王ヶ台(あおがだい)団地」が立ち並んでいる。しかし、すでに宅地化で一帯は削平され、遺構は何ら残っていない。
4 笹下城 横浜市港南区笹下4丁目 35.388845 139.599194 間宮氏笹下本城、間宮豊前守陣屋、篠笥城、佐々木城とも。標高60m、比高40m。 日下小学校前西南方の、笹下川から洋光台団地のある台地、その上部にある成就院の一帯が城址とされる。付近は広大な台地で、西側には大小の谷戸が複雑に入り込んで要害性を高めている。間宮氏は周囲に複数の陣屋・居館を築いて、郭や堀などの城塞施設を用いたという(『日本城郭大系』)。 しかし、調査が充分行われないうちに、洋光台の開発の波にのみこまれ、その詳細は不明となっている(『横浜市港南区ホームページ』)。 笹下間宮氏は在地武士で、古河公方・足利成氏の被官を勤めた(『相州古文書』)が、その後、後北条氏の北条早雲に従って命脈を保ったと伝わっている(『日本城郭大系』)。 成就院には城址説明板があり、その前の道は空堀跡とされる。また同院裏山には土塁のような地形を認めるが、明確な遺構は望めない。
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